株式会社エクシード
波頭 亮 著
JN連載(実業之日本社)『流転と漂白のルネサンス
2001年1月号〜2002年1月号/連載2ページ

No.

タイトル 発行日 内容
13 第13回
「話すほどに寂しい
日本人の英会話」
2002年
1月号
最近、留学に憧れたり、英会話学校に通う若者がやたらに増えている。また同様に若者の間では今資格取得がブームであり、特にMBAとかCPAとかコジャレた資格に人気が集中している。最近のダレた若者達が何か真面目に勉強することには大賛成である。しかし残念ながら、彼らの動機の多くはカッコヨク映るからにある。要は英語を流暢に話す自分、難しい資格をもっている自分に酔いしれ、周囲の羨望の的でありたいだけなのである。彼らが追い求めるカッコよさとはあくまでも外見上のこと。そこに思想や信念はない。信念や思想とはべき論と己が対峙し、日々の経験と思索の蓄積によってのみ醸成される。何の為に生きるのか、今の自分はこれでよいのか、自身と対峙するからこそ人間としての深みが生まれ、人に語るべきコンテンツも生まれるのだ。いくら得意の英語でしゃべりまくっても、資格の証書を何枚も集めても中身の無い若者達の言葉は相手の心には何も響かないし、当然彼らの生き様から価値有るものは何も生まれない。
12 第12回
「引き倒した神殿に
再び群がる若者達」
2001年
12月号
戦後の日本を支配してきた「会社」という神がついに90年代崩壊した。信仰し帰依していれば社会での身分を保証してくれ、生活の糧を与えてくれた「会社」なる神は、年功序列、終身雇用という二大経典とともに崩れ落ちた。「会社」の統治が及ばなくなった90年代の不況の荒野で、若者達は「フリーター」と「ネットベンチャー」という信仰宗徒を名乗った。しかし、この狂信的新宗派も僅か数年でバブルと弾け飛んだ。その結果今、若者は長引く不況の世相にあわせて、新しい動き「保守回帰」を見せ始めた。「会社」なる神殿を引き倒し、参道を踏みにじった旗手は彼ら若者であったのに。その彼らがフリーターの「きままに気楽に」もネットベンチャーの「あっという間に億万長者」も共にままならないので、背に腹はかえられないのである。こうして、能力はもちろん意地もプライドもない彼らは、自惚れと虚栄心ばかりまとって、漂泊と流浪を続ける。多少の不安は感じながらも危機感の持てぬまま、無価値な存在として彼らの敗北は続いていく。
11 第11回
「エリートのいない憂鬱」
2001年
11月号

いつの時代も、どんな世界にもエリートと呼ばれる者達は存在した。エリートとは、類稀な能力と社会的な地位や役割によって世の中に影響を与える、公的に選ばれし者達のことである。そしてこの選ばれし者達が本当のエリートたるためには、ノブレスオブリージュを背負わなければならない。ノブレスオブリージュとは、高貴な人、社会的に身分の高い人はそれだけ大きな義務を背負わなくてはならないという思想である。つまり、エリートはエリートの義務を自覚して初めて一流の人として自他ともに認められるのであり、庶民にはない力を持つが故に、その力を通して世の中に貢献しようとする姿勢が本当のエリートたる姿なのである。今、日本には尊大に構えた自称エリート君たちが巷に溢れている。こうした彼らもパフォーマンスの能力だけは長けており、多くの人の賞賛を欲しがってあの手この手で自分の優秀さを饒舌に語りエリート意識に浸っている。哀しいかな、今のエリートぶってる若者からは、ノブレスオブリージュはもとより、本来のエリートの要件である能力も志も見て取ることはできない。謙虚で高潔なエリートのいない社会はもろい。

10

第10回
「求めよ、さらば救われん」

2001年
10月号
今日、以前のような援交や行き過ぎた性愛観も表立って聞かなくなり、脱フリーターの動きも見えはじめて来ている。しかし、相変わらず若者達からは社会性に関わるテーマの話はでてこない。政治の話でも小泉首相が男性として好みかどうかぐらいの興味しかないし、先日大きく取り上げられた某私立大学の闘争は、サークル部屋の移転を巡ってのことだとか。何故神はこの国の若者に幸福への道を示してくれないのか。それは、彼らが求めないからである。彼らが人生の何たるかを見出そうとし、幸福や豊かさの軸となる本当の意味の生きるべき道を追求しようとしないからである。今日の若者が言う“自分の考え”とは、思想や理性に基づくものではなく、感覚的な欲望の表明に過ぎないのだ。これでは、神は降臨しない。人が本当に幸福になることを求めなければ、神からは言葉を発することはないし、秘蹟も示してはくれない。そして、彼らとともに無自覚のうちに神なき日本は崩壊していく。
9 第9回
「今の世の中武士道を持った男は
どこにいる!?」
2001年
9月号
10年前、女が望む男の結婚条件は三校=高収入・高学歴・高身長といわれた。相手の人格や性格、自分に対する気持ちよりも収入や学歴がまず一番という考えである。女とは男選びに、シビアでしたたかで現実的なのである。今、賢い女達は学んだのだ。いくらフリーターがカッコイイ夢を語っても、口先ばかりで実がない彼らに現実は甘くないことを。カッコよく、気分よく生きるためには社会的ステイタスとカネが必要であることを。数年前のインタビュー調査で人気NO1であった“暇で優しいフリーターの彼”の価値は大暴落。今や幾らイケメンでもフリーターで貧乏な男は、現実的な女達にとっては魅力がないのである。情けないのは男である。厳しい現実を突きつけられ、ギャルにも相手にされなくなっても、自分の信念を突き通すだけの強い精神力があるのなら、フリーターでもその生き方は否定しない。しかし、“今カッコイイこと”が全てである彼らには、哲学どころか、プライドも意地もないのだ。そのカッコよさの基準も、他人からカッコいいと羨ましがられるか、さらにいうとギャルにもてるどうかなのである。かつて日本男児が持っていた武士道という本物に格好よい価値観、命を賭しても自己の名誉を守り、あらゆる困難、逆境に立ち向かう高潔な精神などは、今の男の子達の辞書には載っていまい。
8

第8回
「堕ちた心の徹底的な
浄化には時間がかかる」

2001年
8月号
人間性を解放することが美しく崇高であるという思想で花開いたルネサンス。ところが爛熟してくると、人々は際限なく快楽を貪り、日々愛欲に耽るようになっていった。身を律することを徹底的に否定したのである。その結果、花のヴェネチアは、単に欲望の排泄に使われるだけの低俗な娼婦で溢れ、一般の女子までもが慎みを忘れて、放蕩の街と化してしまった。ここまで自堕落と放蕩が進むと、人間の自然な感情や官能の解放と呼ぶことには無理が生じる。同様に、援交に明け暮れ、1年に100人と寝ながらも、何となく満たされないでいた世紀末の女子高生にも同じ感覚が芽生えてくるものである。人間の恋愛はただ欲望に忠実な動物的なものでよいのか。人間はもっとストイックに生きてこそ、人生に意味と価値を見出すことができるのでないか。行き過ぎた人間に対して、神は身を律することを求めたのだ。今、日本も行き過ぎた性愛観に対する反動の兆候が散見されはじめている。またフリーターにも同様な動きが出始めており、真面目に働こうとする若者が増えてきている。しかし哀しいかな、純粋な動機で頑張ろうとしても、自分を磨く努力を怠って甘えてきた彼らには受け入れてくれる社会はなく、もともと精神力のない彼らは、結局またもとの堕落した生活に戻ってしまうのだ。純愛も同じである。今まで好き放題でやってきた彼らが果たして純愛を勤める能力をもっているのだろうか、疑問である。
7 第7回
「高級娼婦達はいかにして
“高級”たり得たか」
2001年
7月号
かつて、ルネサンスのコルティジャーナも神の崩壊に一役買った。彼女らの登場によって、自由に愛し合うこと、また人間の本能に基づいて生殖のためのみならず快楽の性交は素晴らしいことだと、性が解放されたのである。コルティジャーナとは、16世紀に存在した高級娼婦である。持ち前の外見の美しさに加えて、最高の教養と音楽的技能を持ち合わせた一流の女性達である。そんな彼女達だからこそ、人として女性として本当に愛され尊敬される存在であったし、風俗史の域を超えて社会や分史に与えた影響は大きかったのだ。現在、男の目を意識した挑発スタイル一色の渋谷のギャル達を見ると、この光景は人口の一割が娼婦と言われたヴェネチアを思い起こさずにはいられない。では、渋谷のギャル達がコルティジャーナのようであるかというと全然違う。彼女達は性を売っているのではないからというのではない。女性としての自分自身の磨き方や社会性、さらに気品や教養といったものが格段にコルティジャーナの方が上だからである。コルティジャーナの魅力は、外見の美しさに優る内面の美しさにあった。努力と共に培った教養や品格は強さを持つ。そうして培われた人格的な美しさは、人の心を本当に惹きつける力を持つのである。渋谷のギャル達が安易に思っているほどに、若さだけの薄っぺらな肉体は力を持たないのである。
6 第6回
「社会という現実を前にして
途方に暮れる若者達」
2001年
6月号
AM2:30、若者に人気の渋谷のカフェ。今の若者の“カッコよさ”が凝縮されている場所である。印象的なのは店員、客はじめ店全体にダルイ雰囲気が漂っているということ。そして、それが店が流行る秘訣らしい。今の若者にとってのカッコよさとは、熱くならない、適当、という態度と生き方であって、頑張る、生き生きとしているという生き方はみっともないらしい。PM2:30、筆者のオフィス。新卒採用の面接を行っている。これで8人目の大学生であるが、皆リクルートファッション、そして志望動機も自己紹介も質問の内容も判で押したかのように皆殆ど同じである。格好やファッションも、挨拶や立ち居振舞いも、深夜のカフェとリクルーティングの面接の場では180度違う。だが、彼らの醸し出す虚ろさ、空虚感は妙に通低する。“実”が無いのである。なぜなら、彼らは何も考えないで生きてきたから。彼らは何にもコミットしないで生活してきたから。その結果として、社会に出て自らの力で生きていかざるを得ない状況に直面した途端、語るべき言葉を失い、途方に暮れるのである。精神力と内省の裏付けのないダレた生き方、コミットしない態度は単なるひ弱な甘えでしかない。
5 第5回
「フリーターは
21世紀ルネッサンスの
担い手たり得るか」
2001年
5月号
現代の日本には、若いネットベンチャーの他にも、大企業支配システムを揺るがしつつあるもう一つの挑戦者たちがいる。フリーターである。会社に仕えて硬直化した人間関係と、仕事を押し付けられることを嫌い、収入は少なくても無理に頑張らずに“自由”な生き方を選ぶ彼ら。資本主義社会を支えてきたシステムを否定し、新しい生き方を模索する彼らの姿は、一見新時代をもたらす“冒険者”にも見える。しかし、残念ながら答えはノーである。ベンチャーの若者と同様、フリーターの彼らも現代のルネサンスの旗手とはなり得ない。何故なら彼らの生き方の本音のところは、積極的な選択による主張的行動ではないからである。自らの価値観の主張として会社を拒否しているというよりは、会社がもとめるスキルや責任感が欠如しているために、会社に拒否されているというのが実態なのである。そしてここが重要なのだが、彼らフリーターは自らの働きによって得るものだけでは生きていけず、彼らが否定している会社システムの中で必死で働く親のスネをかじって生活しているのだ。自らの生活の糧を自らで賄えない彼らの生き方は、むしろ会社システムへのパラサイト(寄生)と呼ぶべきであろう。
4 第4回
「渋谷の若者達が
“現代のコロンブス”に
なれなかった理由」
2001年
4月号
中世の冒険者のごとく、アメリカではビルゲイツが、チェンバーンズがビジネスの世界に新しい地平を見い出した。しかし、日本でその担い手と目されたビットバレーには、真の冒険者は存在せず、バブルと弾け消えてしまった。一体何が違うのか。答えは簡単、渋谷の若者は社会を革新する為に必要な、周到な準備や戦略に欠けていたからである。またそうしたものの土台となる個人の知性や技術力もあまりに低かったのである。更に、彼ら自慢のハードワーキングに対しても自己評価が甘く、現状ですごく頑張った気になっていたところも問題であった。そしてなかでも一番の致命的な問題は、志、つまり目指す動機が歪んでるところにあった。彼らは新しい価値観とライフスタイルの確立、ひいては社会を豊かにすることを目指していたのではなく、いかに自分が楽して得をするかが最大の目的だったのである。インターネットという武器を手にしたものの、お粗末なレベルの能力と努力に過信し、唯我独尊と不遜な態度で臨み、自らの享楽のみを追いかける彼らの先に、新しい地平など開けるはずもない。
3 第3回
「従来の定説に挑む
命知らずの冒険者が
豊かに実りをもたらす」
2001年
3月号
巨大な象が支える円盤―。それが中世の人々にとっての世界だった。しかし、こうした世界観を打ち破り飛躍的に世界を広げたのが、14〜15世紀に急速に発達してきた天文学や航海術という新しいテクノロジーと、そのテクノロジーを活用して定説と常識にチャレンジした冒険者たちであった。そして、天文学者が命を賭して唱えた天動説と冒険者達の命がけの航海が、新大陸という新しい世界の発見に結びついたのだ。その結果、人々は経済的にも文化的にも大いなる繁栄を享受することができたのである。今、インターネットは現代の“航海術・天文学”であり“活版印刷術”である。では、インターネットはルネサンス時の聖書や新大陸のような、飛躍的に我々を豊かにしてくれるものをもたらすだろうか。残念ながら、現時点の日本においてはノーである。活版印刷術を使って聖書を刷り、新しい真理のために命をかけて腐敗した教会に挑んだルターや新しい地平を目指して世界の涯に突き進んでいったコロンブスやマゼランが見当たらないのである。インターネット発祥の地アメリカには、ビルゲイツ、ジェフベゾスといった世の中の仕組みを変えるチャレンジをした若者もいないわけではない。しかし、わが日本においてはそういった冒険者も革命家も見当たらない。
2 第2回
「科学技術が生み出した
新しいメディアが
腐敗した権威を持つ」
2001年
2月号
情報は石の城壁を穿ち、鉄の鎖をも断つ。約600年前、暗黒の中世から人々解放し、ルネサンスへと導いたのも情報であった。当時絶対的な権威を有していた教会は、神の意向にそむくと地獄へ落ちるという恫喝によって、人々の生活と思想を牛耳っていた。教会は自らを神の代弁者として、人々を裁き社会を支配し、自らの富を肥やしていた。そんな人々の前に突如現れたのが神の御言葉を直接記した聖書である。そして、聖書の中に記された本当の神の言葉は、腐敗した教会の矛盾を浮かび上がらせ、教会の理不尽な束縛から人々を解放し、これまで禁じられてきた人間らしく生きることを是としたのである。こうした真理の逆転を導くことになった聖書の流布であるが、実は活版印刷術の発明という、テクノロジーのイノベーションによってもたらされたものである。この活版印刷技術の発明があったからこそ、聖書の大量生産が可能になったのである。新しいメディアテクノロジーは、真の情報を民衆に広め、正義と悪、支配者と被支配者を逆転させる力を持つ。2001年の今、インターネットという新しいメディアが、一握りの権力集団に独占されていた知識・情報を解き放ち、古い神による恫喝的支配を打ち砕こうとしている。今、市民の声が世界中に届けられている。
1 第1回
「ジーンズで働く若者が
21世紀のルネサンスを
巻き起こす」
2001年
1月号
いつの世も若者は暗黒の闇を切り開く。人々の心と生活をまるで神のように支配してきた強欲な資本主義とその舎弟である会社は、栄華を極めている。人の心から慈しみを奪い、餓鬼道へと迷わせてきた資本主義と会社システム。これら現代の神に対して、反逆を始めたのが現代の若者なのである。ある者達は、街とインターネットで情報を得、ビットバレーに集って仲間で語り、背広を脱いでジーンズで働き、ベンチャー企業を起こして寝袋持参で頑張る。またある者達は働くことを捨て自由に生きるフリーターとなった。人間らしさを奪う会社にねじ伏せられるのを断固拒否して、人間らしい自分を解放しリスクをとって新しい楽園を目指しているのである。神の名を語る堕落した教会が全てを牛耳っていた暗黒の中世が、終に14世紀の若者達によって幕を降ろされたように、今若者の手で21世紀のルネサンスが始まろうとしている。
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